聖書のみことば
2023年9月
  9月3日 9月10日   9月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

「聖書のみことば一覧表」はこちら

■音声でお聞きになる方は

9月24日主日礼拝音声

 むさぼりの罪
2023年9月第4主日礼拝 9月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/出エジプト記 第20章17節

<17節>隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。

 ただ今、出エジプト記20章17節をご一緒にお聞きしました。
 「隣人の家を欲してはならない」と教えられています。「家を欲する」などということがあるのでしょうか。隣の人がとてもステキな家に住んでいて、自分もあのような家に住みたいと思うことが悪いことなのでしょうか。
 十戒の最後に当たるこの戒めは、教会の歴史の中では「むさぼりの罪」、即ち、貪欲を戒める言葉であると受け取られてきました。新共同訳聖書では、その「むさぼり」という言葉が表には現れないで、「欲してはならない」という言い方で訳されていますが、たとえば新共同訳になる前に多くの教会で使われていた口語訳聖書では、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない」と訳されていました。このように、十戒は最後のところで、「むさぼりの罪」、即ち、人間の心の内に潜む貪欲という事柄を問題にしています。新共同訳聖書では、この戒めに語られている事柄が心の内に潜む問題であることをはっきりさせようとして、わざと「むさぼる」と言う代わりに「欲する」という言い方で訳したものと思われます。

 言われてみますと、確かに私たちは日頃、自分の心の中のことを気にかけていないかもしれません。私たちは、自分自身の行動が他の人たちからどのように受け取られるかを考えて、行動については注意することがあっても、心の中はそうではないことを思い起こすことができるのではないでしょうか。
 私たちは日頃、自分の心の中はある種のブラックボックスのように思っているのではないでしょうか。ひとたび心の中の思いを外に現わしてしまえば、自分が何を考えているかは周囲の人々にも分かるようになります。しかし、行動の形で外に現しさえしなければ、あるいは言葉にして外に出してしまわなければ、心の中ではいくらでも自由に振る舞えると思ってはいないでしょうか。他の人たちには気づかれず、幾らでも自分の考えや思いを巡らせることができると考えているように感じます。
 しかし、神はそういう私たち人間の心の中を御覧になります。私たちが行動や言葉に気をつけて上辺だけ清らかでいるだけでなく、お互い同士の心の内も清々しく生きるようにと望まれるのです。それが十戒の最後の戒めに表されていることだと思います。
 ある説教者が十戒について説明した折、次のように教えました。十戒というのは、一つの古いビルを掃除するのに似ていると言うのです。1階から9階まで、各階を掃除します。閉めきっていたカーテンを開いて御言の光が一つ一つのフロアに射し込むようにして、窓も開けて聖霊の風が爽やかに室内に吹き込むようにします。そうやって、すっかり明るくなった室内を綺麗に片づけ、塵も落ちていないようにするのです。そのように1階から9階までを綺麗に掃除して、すべてが終わったと思ったら、もう一つ、この建物には、建物全体を下から支えている第10の部屋、地下室があったことが思い出されました。そこは、普段は地下に隠れていて気づかれることの少ない私たちの心の中の事柄のある場所で、第10の戒めは、この場所も綺麗にするための戒めである、そういう説教でした。
 確かに、地上にあるフロアすべてを片付け綺麗に掃除しておきながら、その下に隠れている最も奥まった部屋には手をつけず、そのために、どこかすっきりとしないところが残って清々しくなれないとしたら、それは何とももったいないことだろうと思います。

 心の中に隠れているむさぼりの罪、貪欲ということについて、使徒パウロはローマの教会に宛てた手紙、ローマの信徒への手紙7章7節に「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」と記しています。
 ここにはまさに、今日聞いている戒めのことが語られています。律法の中で「むさぼるな」と言われなければ、パウロはむさぼりの罪を自分が犯していることに気づかなかっただろうと語ります。このローマの信徒への手紙の言葉はやや分かり辛いところがあって、ここだけを聞くと、律法が私たちに罪を犯すように唆していると、誤って読んでしまうことがあり得るような箇所です。ここで言われていることは、十戒が「むさぼってはならない」と言っているのを聞いたら、急に私たちの心の中にむさぼりへの思いがむくむくと沸き上がるということではありません。むさぼりの気持ちや貪欲さというものは、もともと私たちの心の中に当たり前のようにあるのです。ただそれがあまりに当たり前のようにあり、また心の中の事柄で行動に現れにくいので、十戒がそれを指摘しなければ、私たちは日頃はそのことに気づかずに過ごしてしまうのだと言われています。もともと私たちの中に根を降ろして巣喰っている暗い思いが、律法の言葉によってえぐり出されてしまうのです。そして明るみの中に置かれるのです。聖書の言葉には、そういうところがあります。聖書の言葉に触れるときに、私たちは確かに自分の中に問題がある、さまざまな暗さがあることに気づかされるようなところがあるのです。
 それで、世の中には聖書やキリスト教が嫌いだという人が一定数いることも頷けます。ヤソ嫌いと言われる人たちですが、そういう人たちから「ヤソ教徒たちは、二言めには『罪』と言って、人間は罪人だと言う。自分は何も悪いことをしていないのに、何もしていない人のことを犯罪人扱いするからヤソは嫌だ」と言われることになります。そういう人たちも、一度、自分の心の中に何があるかを虚心坦懐に見つめたら良いように思うのですが、しかし世の中の多くの人は、そもそも人間は清く善い心を持っているのだと固く思い、そう信じることが絶対に正しいと思っているので、なかなか率直に自分自身を見つめる気持ちにはなれないようです。
 そもそも心の中のことは本人しか分からず、周りの人たちからは決して分からないと思い、自分が言いさえしなければそれで通ると思う人は大勢いるのです。確かに私たちは、他人の心の中を覗き見ることはできません。
 しかし神は、それがお出来になります。そして主イエスも人の心の中に何があるかをよく御存知でしたから、それ故に山上の説教の中では、弟子たちが心の中で犯す罪も、たとえ行いには表れないとしても、罪なのだということを教えられました。例えば、情欲をもって異性を見た人は、既に心の中で罪を犯したのだという言い方で教えておられます。
 私たちは、行いに現さなければ罪がないのではなく、そもそも私たちの心の中に潜んでいる罪の根があることを、主イエスははっきりと指摘なさいました。

 ところで今日の箇所には、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」と教えられています。配偶者であり伴侶でもあるべき「妻」が、男女の奴隷や牛やろばなどと並べられている点に抵抗を感じる方がいらっしゃるかもしれませんが、これは旧約聖書が書かれた当時の社会の姿でしたので、これがいつの時代にも通用する訳ではありません。むしろ現代では、自分の思いのままに操れる男女の奴隷はパソコンやスマホに、また牛やろばといった動物は自動車などの乗り物に置き換えて考えると、私たちは、自分の持っていない物を見て、隣人の持ち物や境遇をうらやましく思うことがあるかもしれません。
 もちろんこの戒めは、自分の生活が楽になったり豊かになったりすることを何も望んではいけないと言っている訳ではありません。ここでの戒めの中心は、隣人の物を羨んで掠め取るという点にあるのかもしれません。そしてそういう戒めは、十戒の戒めという形だけでなく、具体的な物語の形でも聖書の中に教えられています。
 例えば、旧約聖書の列王記には、アハブという王が自分の宮殿の隣にあったナボトという人の所有していたぶどう畑を手に入れたいと心の中で願う話が出てきます。アハブ王はナボトから畑を買おうとするのですが、一徹者のナボトは、たとえ王の頼みであっても先祖伝達の自分の土地を手放そうとしませんでした。王は気分を害し塞き込んだのですが、それを見た王妃のイゼベルが、ならず者を使ってナボトの罪を言い立てさせ、ナボトに濡れ衣を着せて無実のナボトを石で打ち殺させ、そしてナボトが死んだことだけをアハブ王に告げました。するとアハブ王は、今や持ち主がいなくなったぶどう畑を自分のものにしようとしました。列王記上21章1節から16節に記されているのですが、15節16節には「イゼベルはナボトが石で打ち殺されたと聞くと、アハブに言った。『イズレエルの人ナボトが、銀と引き換えにあなたに譲るのを拒んだあのぶどう畑を、直ちに自分のものにしてください。ナボトはもう生きていません。死んだのです。』アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った」とあります。
 アハブ王は、「ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った」のですが、この時アハブ王は自分が何か悪事に手を染めたとは思っていなかったでしょう。王自身はナボトと交渉してぶどう畑を手に入れたいと言っただけであり、しかし断られたために自分の王宮に引きこもって不機嫌に黙り込み、座っていただけだからです。ところが、そんな王の様子を目にした王妃イゼベルが忖度してナボトの命を不当に奪わせ、その死の出来事だけを王に伝えます。すると王は、うって変わって、今度はナボトの残したぶどう畑を手に入れようといそいそと出掛けるのです。この時、アハブ王自身には罪の意識はありません。自分が手を下してナボトを殺めた訳でも、また王自身がナボトの命を奪うように命令を下した訳でもなかったからです。
 しかし、王自身に罪を犯した自覚はなくても、ナボトが殺されたという出来事について、アハブに何の責任もない訳ではありません。実際問題としてナボトが何故死んだのか、どうして殺されるようなことになってしまったのかという理由を順を追って考えてゆくと、結局は、アハブ王がナボトのぶどう畑を手に入れたいと願ったことに行き着くからです。そしてそれが上手くいかないと不機嫌に黙り込んでしまったということがあるからです。アハブ王が隣人であるナボトの持ち物であった肥沃なぶどう畑を我が物にしたいと思った、その思いが、巡り巡ってナボトの命を奪いました。実際に行動したわけでも、命令したわけでなくても、心の思いだけでアハブ王はナボトを死なせたのでした。アハブ王のむさぼりの思いが、結果的にナボトを死に追いやったのです。

 こういうことから分かることは、人間が犯す罪と過ちは、行いや口から出る言葉の失敗だけではないということです。私たち人間の心の内に抱く思いが、そこで既に罪を犯し、それが重大な結果につながる場合があり得るのです。
 従って十戒は、その最後のところで、私たちの心に関する事柄、「あなたの心の内にある、むさぼりの思いに注意するように」と警告するのです。「心の中は他人には覗き込めない事柄だから、決して気づかれないだろうと思うかも知れないが、そうではない。注意しなさい」と十戒は教えます。「神さまはあなたの心の内をいつもめぐり照らし、注目しておられる。あなたは自分の心において、隣人の家や持ち物について、むさぼりの思いを持ってはならない」と警告されています。それが第10番目の戒めです。

 けれども、改めて十戒の中にこのような戒めがあるのだということを知らされますと、実際のところ、私たちはとても困るのではないでしょうか。というのも、行動や言葉ならまだ気をつけようもあるのですが、心の内に抱く思いということになると、私たちはそれを制御することも支配することもできないと思うからです。
 私たちの心がどのようであるかが、よく分かる場面があるように思います。それは、夜眠っている間に見る夢です。私たちは一晩の間に見た夢をすべて憶えているわけではなく、むしろほとんど忘れてしまうのですが、平均すると一晩のうちに4つ5つぐらいの夢は見ているようです。
 私たちの見る夢は、人により様々でしょう。しかし、おそらく私たちが決して見ることのない夢があります。それは、神の前に私たちが身を低くして神を賛美し礼拝をささげているという夢です。私たちが夢の中で、神こそが真の主、真の王なる方として、私たちのささげる賛美の中央に立っておられ、自分がその前に平伏していたという夢を、私たちは恐らく見ることがないでしょう。どうしてかと言うと、夢の中では大抵、自分自身が主人公だからです。悪夢と言われるような夢を見る場合もありますが、そういう夢でもやはり、私たちは自分が主人公であって、追いつめられたり命の危険を感じてはらはらしたりするでしょう。夢には、私たちの心がどんなに自分中心であるかということが鮮やかに現れるのです。考えていることがあって、夢の中で、はたと気づくということがあります。その気づいたことを眺めている自分がいます。私たちの心の中は、放っておけば必ず自分が中心なのです。

 そうしますと、「むさぼるな。あなたは貪欲に気をつけるさい」と言われても、それは私たち自身にはどうすることもできない、制御することが難しいということではないでしょうか。私たちはもともと、自分中心に物事を考えることが当たり前のようなところがあるからです。自分中心に物事を考えることと、隣人の家や持ち物をむさぼってしまうことには深い関係があります。もちろん私たちは、あまりみっともないことにならないように、自分の行動や言葉に気をつけることはできます。人の物を盗ったり、他人を傷つけたり殺めたりしないように注意することはできます。しかし、自分の心を、思い浮かぶ思いを、自分で自由に操ることはできないのです。
 そうすると、十戒のこの最後の戒めは不可能なことを私たちに要求しているのではないでしょうか。神は、私たち人間には決してできない無理な要求をなさっているのではないでしょうか。
 それはその通りなのです。もし私たちが、今の自分自身の力やあり方だけを考え、自分の力や思いや努力で心の底まで神に従おうとするのであれば、それは決してできないことを無理やりやろうとしていることになるでしょう。
 実はそのことも、聖書の中に記されています。最初の人アダムが神の御言葉に背を向けて、自分の目に好ましそうに思えた木の実に手を伸ばしてしまった出来事が創世記に記されていますが、それ以来、私たち人間には、自分が神のようにすべてを決定できなければ気が済まない、困った心の傾きが生まれてしまいました。アダムだけでなく、私たちも放っておけば、神の御言葉に背を向け、自分の思いだけで生きようとします。神の御心に従って生きることを望むよりも、自分の思いや願いが実現することばかりを追い求めて生きてしまうようなところがあるのです。
 そして、その自分中心の思いが隣人に対して向けられる場合には、そこにむさぼりの思いや妬みの思いが生まれてしまうのです。

 しかし神は、そういう私たちが、救いのない呪われた状態で「思い通りにならない」と言って互いにいがみ合いながら生きることを憐れんでくださいます。そして、私たちの生活のただ中に、「神さまに背く私たちの罪が赦されて、新しい生活が与えられている」ことを知らせて下さる方を送って下さいました。それが主イエス・キリストです。
 私たちは、放っておけば自分自身の思いばかりを追い求め、隣人と信頼し合うことのできない孤独な生活の中に閉じ込められたような生き方しかできません。しかし、そういう私たちを憐れまれた神が、「私たちの罪の身代わりとなってすべての罪を御自身の上に負い、十字架の上で清算してくださる方」を送ってくださいました。そしてその主イエスが、私たちの罪を十字架の上で清算した上で、「あなたは、この十字架によって罪を清められ、新しく生きることができるようにされているのだから、そのことを信じて、ここからもう一度生きるように」と招いてくださるのです。

 主イエスは、地上の御生涯においては弟子たちを招き、共に歩まれました。そして今は、教会の頭として、教会に招かれ主を信じて生活しようとする私たちと共に、歩んで下さいます。主イエスに結ばれて歩む、そこから真に漬められた新しい生活が始まっているのです。

 私たちが十戒を聞くのは、この戒めを人間の力で守れるからではありません。実を言えば、十戒の戒めはどの戒めであっても、私たちが自分の力だけですべて行えるようなものではないのです。主イエスの時代、ファリサイ派の人たちは、自分たちは律法をすべて行なっていると言い張っていましたが、主イエスはそうではないことを見抜いておられました。十戒の戒めは、私たちが自分の力や努力でそれを成し遂げられると思うならば、そこに欺瞞が入ってきます。私たちは、自分の一番根本のところに自分中心に生きたいという思いが巣食っているので、本当には神に従うことができないのです。土台がずれているのですから、私たちはどんなに気をつけても、本来の自分の姿が見えてしまうのです。

 けれどもそういう私たちを、根本のところから神は清めて新しくしようとしてくださるのです。主イエス・キリストが私たちのもとに来てくださり、「あなたの罪は十字架によって清められている。あなたは新しくここから、わたしのものとして生きて良い」と呼びかけてくださるときにこそ、私たちは、十戒に求められている生活の中に一歩を歩み出せるようになります。

 そして神は、私たちがただ上辺だけ言葉だけで主に従い生きるのではなくて、本当に心の底から主イエス・キリストに従うことを喜び、神に信頼し、隣人を愛して生きるようにと、この最後の戒めを通して教えてくださっているのです。

 今日の第10の戒めは、私たちを心の奥底から清め、朗らかにしようとする神が、私たちを見守ってくださっている約束を告げる言葉であることを憶えたいと思います。お祈りを捧げましょう。
このページのトップへ 愛宕町教会トップページへ